二宮金次郎(1) 金次郎の生い立ちと素養
 かつて、学校に金次郎の銅像がありましたが・・・近頃はあまり目にすることもなくなったような気もします。報徳思想はどうしたのか?やはり農政家というものは、現在の産業構造からは縁遠いものになっているのかもしれません。
 さて、二宮尊徳こと金次郎ですが、天明7年(1787年)7月23日相模の国足柄上郡栢山村の百姓の利右衛門の長男として生まれます。金次郎の家はどうやら二町三反余りの土地をもつなかなかの地主だったようです。
 ただ、時代背景として、天明の大飢饉や打ちこわしなど食糧危機や政情不安の中に生まれたというわけです。
 金次郎の村を流れる酒匂川がしばしば氾濫を繰り返したことによって徐々に貧乏への道を歩んでいったようです。特に寛政3年(1791年)の氾濫はひどく、田畑の復旧には5年を要したと伝えられています。そして、その後利右衛門は寛政12年(1800年)、金次郎14歳の時に亡くなります。
 そして2年後の享和2年(1802年)に母親が亡くなり、この年再び酒匂川が氾濫します。どうやらここで金次郎の家の田畑は借金のかたに取られたかしたようです。そして一家は離散、金次郎はおじの家に引き取られます。
 ちょっと気になるのが数えで16歳ですからそろそろ立派な働き手のような気がしますがね?銅像の金次郎は小さな子供の姿ですから苦学時代ではなさそうな?
 どうやら、引き取られた叔父の家には蔵書があったようです。そしてここで学問に精を出すようになったようです。そして、ここでいくつかの新規事業を行ったようです。その1つとしては夜学のための灯火の菜種の栽培です。これは空いていた荒地にまいてそこそこの収穫を上げます。これに味をしめたか、中途半端な大きさで耕作されていない土地をあちこちミニ開墾を行います。
 これが、後年「小を積んで大を為す」という思想へとつながっていく下地となります。また、金次郎は商才に長けていたのか?それとも現金の威力というのを知っていたようです。ですから薪や米等を相場の高い小田原の城下まで自ら運び地元での販売よりより多くの利益を得るとか、米やお金の貸付なども行い、武家への奉公によって現金収入を得るなど蓄財に励んだようです。
 どうやら、薪をかついだ金次郎は18・9歳の年だったんですかね?銅像はもう少し小さな子供のような?
 金次郎の向学心はどうやら別の余禄を彼に与えたようです。それは、村の名主、岡部伊助のもとにしばしば学問を口実に出入りしていたそうです。この岡部伊助は学問を好み、息子のために学者を呼んで講義を聞かせていたのでそれを外から漏れ聞くというものでしたがこれによって得た学問などをもとに、学問に縁のある武士の家を選んで小田原の町へ家庭教師の出稼ぎにでていたようです。ここでの経験は後年、小作料にて収入を上げるようになった26歳の頃、藩の小田原藩家老の家の学僕となることに成功し、藩校へ家老の息子達の付き人として出入りを許され講堂の外で講義を漏れ聞くことで四書五経を学ぶことになります。まあ、家老宅へ戻ると、このときの講義を元に家庭教師をするわけですから学問が身につくわけです。これが後年農政家として腕を振るう人脈の形成につながったようです。
 また、荒地の開墾を自ら行い、開墾後はこれを小作に出すなどしていたようです。どうやらこれは、当時の税制の穴であったのかもしれません。小作料や現金収入には税金がかからないというやつですかね?そして、自らは耕さず小作料を取り地道な経営手法で蓄財を重ねます。
 ただ、立派なのは、この頃既に窮民に対しての施しなど行っていることですね。社会事業家としての片鱗が既に現れています。母親の実家の破産の折にはこうして蓄財してきた田畑の一部を売ることでその生活を助けたりもしているようです。これは文化5年(1808年)金次郎22歳のときです。