二宮金次郎(2) 若き日の金次郎の成功の鍵
 どうやら、金次郎の成功の鍵になったのは、逞しい体、なんと身長六尺(約182センチ)、体重25貫(約94キロ)ですから、当時としては凄い大男です。この体躯による開墾作業と、そこでの小作による商品作物の栽培と、それの行商による現金収入、そして、家庭教師としての現金収入と現金払いの武家の屋敷への出入りということですかね?
 当時、農村にも広がりつつあった貨幣経済の寵児であったのかもしれません。とにかく18歳あたりから、現金収入になる堤防などの治水工事とかそういったことに精を出していますからね。そして、荒廃した田畑をその金で買い取り24歳の時には1町5反の地主となります。
 さて、このような実績があると武家からの要請が舞い込むようになります。今度は小田原藩家老、服部十朗兵衛の所からです。この時代結構あちこちで名家・旧家が没落の危機に瀕していたようです。そういえば、伊能忠敬も佐原の傾きかけた酒屋を建て直したりしていますね。
 話を金次郎に戻しましょう。当時の武士は厳しかったようです。それは天明年間以来の飢饉とかありますが、なんといっても化政文化期ですから、暮し向きも贅を凝らしたものへとシフトしてきている時代ですからね。商品作物や芸能娯楽遊興費に散財しなければなりません。まあそういった時代であると考えるとよいでしょう。
 当然武家の暮らしも華やかさが要求され、同時に藩の財政は凶作により危機に瀕します。現実に服部家の家禄も名目1200石ですが、実質403石と3分の1であったようです。そして、この家禄をさらに現金化するわけですから目減りが激しいというわけです。
 さて、武士階級の御家建て直しは厄介です。それは自分で何かを生産するというわけではないですからね。いまのサラリーマンと同じです。節約するしかないですからね。副業を、新しい生産物を!というわけには行きません。そこで辞退します!しかし、それまでのさまざまな恩義がありますからしかたなしに引き受けます。
 引き受けたのは文政元年(1818年)のことです。そして、服部家の内情は絶望的であったようです。そして、金次郎の完全な家計の掌握を許し再建の道を歩むことになります。ほとんど不退転の決意が服部家にあったようです。何しろ、完全な緊縮財政ですからね。
 まあ、主人を筆頭に、下男下女に至るまで倹約の美徳の信者にさせてしまうのが金次郎の凄い所でしょう。さて、この家での5年間の成果は、借財の一掃を果たします。
 倹約のために何をしたか?それが問題ですね。下男下女の無駄遣いを減らしたというのが一番です。当時現金で買わねばならなかったのが、金次郎も売り歩いた薪ですね。これを節約させるために、節約した分を買い取るとか、薪の効率を上げるためなべ底をきれいにさせるために、鍋墨を買い取るまでしたようです。節約することで賃金の増加があるのなら人はそのために一生懸命になるということです。
 こいつは、会社でもできそうですね。毎月の事務用品の節約分を社員に還元するとかね。そうすると次の月は購入数が減るので、社員に還元した分は確実に出費が減りますからね。努力を買い取る、これは非常に良い手段です。
 さて、金次郎はさらにこれから、節約分を単に支払ってしまうのではなく積み立てさせる方向へ持っていきます。こうすれば不如意の際の財源に利用できます。これも、化政文化期特有の講の発達に関連があるようですね。金次郎の行ったのは五常講というもので、節約によって得られたお金を積み立てておき、困った人が出たとき低利で融資するというものでした。
 これは、賢いですね。節約した分を食べてしまうとか遊興に使ってしまえばすぐになくなってしまいます。現金があるところには信用が生まれ、その信用が資本となりますからね。そして、武家に対し、この信用を高める手段として升の改革を行います。当時1俵は4斗ですが途中の目減り分を見込んで1升余分に計っていました。この升の使い方次第で役人がちょろまかす米が出てくるので、そういった不満を解消するために、升の統一を行い、4斗1升を3杯で計ることのできる升に改めます。これによって武家の信用はかなり増したようです。まあ、小役人には不評であったかもしれませんがね。
 このようにして、服部家やその影響下にある武士の家を五常講で組織化するなどして再建の実を上げると有名になります。そして、当時老中に就任した藩主大久保忠真より表彰されるなどされます。これは藩主の思惑のようです。何しろ小田原藩自体が傾きかけていたわけですからね。何しろ一つの藩の建て直しを百姓ごときにさせるわけにはいかないという反対を封じ込めるために、先手を打って世に認めさせるためのようですね。
 しかし、さすがに小田原藩をいきなり任せるわけには行きません、また、例によって固辞する金次郎に文政5年(1822年)分家の旗本宇津氏の領地である下野国桜町領の再建を引き受けさせます。
 この町は今では二宮の名を戴く栃木県二宮町です。この町は昭和29年(1954年)久下田町と物部村、長沼村の合併により二宮町と改称されたということのようです。二宮町商工会のホームページがあります。