
| 二宮金次郎(4) 桜町領の状況は? さて、桜町領の予備調査は文政4年ですから金次郎35歳の頃ですね。そして翌文政5年(1822年)から陣屋入りして再建の実行に入ります。この時点で宇津の御家の倹約の方は話がまとまっているはずですから、収入増加の手腕を振るうことになるわけです。 さて、陣屋ですが、城持ちでない大名とか、交代寄合って旗本でありながら知行地を持ちそこに住み参勤交代する連中の館を言いましたが、普通には代官や旗本の支配地の役宅などですね。幕府の代官陣屋は地方行政の拠点で、代官の官舎の本陣や公用を執務する役所、年貢を納める米蔵や運上蔵、手付って書記役の小役人や手代って雑務担当の小役人などの官舎である小屋や長屋、そして、警察権も行使しますから牢屋などが集まったものをですね。これらの建物群は普通は白壁の高塀を正面にもち、まわりはやぶや溝、ちょっと豪華になれば空堀で囲まれていました。金次郎が詰めたのは、旗本陣屋でも、1699年に設置された出張陣屋ですからこんな物を簡略化したところだったようです。 さて、桜町領での仕法、今流に言うとプロジェクトですかね。これがはじまります。しかし、桜町領の実情は悲惨でした。 金次郎が苦しんだ理由は、比較的単純なことであると思われます。それは武家の再建は収入が安定していますからそれに見合った生活をさせ、無駄を省くことで実現できます。また、自分の家の再建は自分が努力することで可能になりますが、今度はその意欲を持たない不特定多数の心を動かさなければならないということから起こっているようです。 したがって、領主である旗本宇津家の方は、倹約と倹約法の伝授と大久保家が目を光らせればすむことであったようですから、領民の人心の確保という時間のかかるものに着手し、同調者を増やすしかないということになります。 このような中、もう一つの悪しき現実に出くわします。それは、かつて枡の改革の動因ともなった、小役人の不正の問題です。いわば、既得権者が沢山存在し、それらの権益の奪取も行わないといけないという現実です。 そりゃ、何らかの理由をつけて補助金を要求し、賄賂を要求し、年貢の上前をはねるなどを生業とする連中がいるわけですからね。 同時代の有名人の事跡を例にしましょう。国定忠治文化7年(1810年)の生まれです。この人物は上野国佐位郡国定村の富農、長岡与五左衛門の長男として生まれます。19歳のころから博奕に手を出しますが、これで家財を蕩尽するなどしてはいないようです。そして、21歳のとき百々村の紋治から縄張りを譲り受け博奕渡世頭取、差配などと自称し縄張り内の賭場から寺銭をとり、無届けの賭場を荒らして金銭を奪い取ることを生業とします。田部井村の溜池ざらいなど賃金が現金で支払われる治水工事などでは名主と共謀して、集めた人足に小屋掛けの賭場で博奕をさせ、寺銭を分け合うなどします。どうやら今も昔も補助金で行われる土木工事はおかしなことが起こる温床であったようです。 そりゃ地方の富農でも、現金の必要な世の中へと移り変わっていく中で、手っ取り早い金儲けとして賭場の開帳を行うことをするわけです。そして、旗本領・天領など代官統治のところでは、手元不如意で地元の有力者に警察権も含めた領地の経営を任せているわけですからね・・・。 さて、忠治の田部井村の溜池さらいの手口をちょっと紹介しましょう。 忠治が田部井村の名主宇右衛門に旱魃の被害を軽減するために、領主の岩下七之助に溜池さらいの資金下付の願いを出させます。もちろん領主も旱魃の被害を受けるのですからお金を出すというわけです。忠治は田部井村の住民ではありませんが、弟の名義の小作地があったのでこれを口実に名主は忠治に事業を受け負わせます。 そして、溜池さらいのための人足溜りを置きます。この人足溜りで何をするか?もちろん賭博です。名主は一応賭博の取り締まりもしないといけませんから、賭場を許したとなると問題になりますからちょっと工夫が必要です。 そこで、賭場の揚りの1割乃至2割を名主が受け取り、名主がその金を拠出する形で溜池さらいの事業を行う形にしてしまいます。まあ勧進という形態を借りようというのでしょう。 さて、補助金のからくりは、忠治と名主が領主よりの下賜金を山分け、名主が人足を集め、仕事を与え、日当を出し、忠治が賭場を開帳しこの日当を回収するというわけです。これが、当時の良くある補助金話のからくりの一つのパターンであったようです。 補助金の影に不正あり、甘い汁を吸う連中がいるということです。 さて、もう一人紹介しましょう。加島屋長次郎です。この人物勤皇博徒日柳燕石とも呼ばれる讃岐の博徒です。この人はなかなか学問がありました。家は質屋も営む地主の家に文化14年(1817年)に生まれます。生まれの榎井村ですが、金毘羅様のとなりです。この地域の博打好きは有名で、ここで博打を打たないのは石の鳥居ぐらいのものであるといわれていたようです。 さて、この長次郎が書いた博打を止められない理由を残していますからそれを参考にしましょう。 これによると、1つは早くに両親を失い、沢山の良田畑を持っていたが、それをみな売り尽くし、ほとんど残っていない、ところが来客が多くてそれに出す酒代に困る。仕方がないので、博打のカスリから出すしかない。その2つには自分は資産家のお坊ちゃん育ちだから、身には一つの技能もない。何か商売をして売買の鞘を取ることができない。そして、そんな守銭奴のようなことはしたくない。かといって鋤鍬を取って耕作する百姓には力がなくてできない。その3は、幼少の生活から富豪生活だったので、頭を下げずに済んでいた。いまさら頭を下げるようなできません。そして4つ目は勤皇博徒の言い草ですね。武士の家の者ではないから弓馬の道はわからないが、博徒は勝負世界に生きているので、一種の信義を持っていて、約束を守ることは間違いない、そして日本の海岸が外国のために脅かされることがあるのなら、私は子分を率いて微力ながら国家に尽くそうと思っているので、とても博打はやめられないというわけです。 この理由書きの1から3が、ある意味当時の零落しつつあった富裕階層の金銭を得る手段としての博打の位置付けであったのではないかと思います。まあ加島屋長次郎は高杉晋作をかくまったり色々とやっていた人ですがね。学のある旦那博徒の一つの頂点を極めた人なのかもしれません。最後に暮らした家には志士の隠れ座敷と呼ばれる、多分の賭場に使われたであろう隠し部屋があったりねなかなか面白い人物であったようです。 まあ、この時代、貨幣経済の伸張で富裕層に異変が起こっていたということですね。 あれ?江戸時代の博徒の研究に入っていますね。ここらで金次郎先生に戻さないとね。 |